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zoom RSS 乾杯の語源 〜 下田奉行井上信濃守の機転

<<   作成日時 : 2008/07/14 23:16   >>

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夏、ビールの美味しい季節です。
あちこちで、暑気払い。乾杯の音頭が盛んに発せられるでしょう。

今日はその乾杯の話です。「乾杯」という習慣は、いつごろ、どのようにして生まれたのだろうかという話です。まあ、知らなくても、酒が美味しく座が和やかであればいいのですが、幕末物語を調べていて出会ったおもしろい話なので、紹介しましょう。

乾杯が日本で始まったのは、幕末です。
安政元年(1854年)にイギリスとの間に「日英和親条約」が協定されましたが、
イギリスは日本との間で日英和親条約を協約した後、通商約款の補足をさせるため全権大使としてエルギン伯を日本に派遣しました。幕府では下田奉行井上信濃守清直ら6人を条約委員として派遣し、交渉にあたらせました。

画像
全権委任状を交換するエルギン使節と幕府代表
水彩 ベッドウェル画 [1858年] エルギン家蔵 複写
横浜開港資料館蔵


会議が終了した後で晩餐をすることになりました。
そこでエルギン伯は、「イギリスでは国王の健康を祝して、杯を交わす習慣があるのだが、是非やろうではないか」と提案しました。

当時の日本人は初めての体験で戸惑いましたが、井上清直は、ともあれ礼を失しないようにと幕臣たちと相談しました。
会話が切れて座が静まり返ったとき、いきなり、謹厳実直な井上清直が立ち上がり、「乾杯!」と大きな声で叫びおごそかに着席しました。
シーンと静まり返った中での井上奉行の突然の発声。これにはエルギン伯をはじめ、参加者が耐えきれず、どっと笑いだしました。井上清直のこの滑稽なしぐさが、その場の雰囲気を明るくして、なごやかに晩餐がすすんだそうです。

これはイギリスの文献に書かれている感想ですので、厳粛に儀式を行なう習慣のあった日本側が、どういう受け止め方をしたかはわかりません。

しかし、このかなりこっけいな「乾杯」の後で、日本の酒席に「乾杯」が行われるようになったことは、微笑ましいことだと思います。

井上清直が突然発声した「乾杯」という言葉の語源は、記録が無いのでわかりませんが、調べたところ、中国では「杯」を「乾かす」ときに、「乾杯」(カンペイ)といって一気に飲み干すのが礼儀だといいます。おそらく、井上清直の頭に中国のこの習慣がとっさに浮かんだのでしょう。さすがの下田奉行井上信濃守。

以上、英語の乾杯を意味する「Cheers!」に対応する言葉として、始めて「乾杯」という言葉が使われた由来です。

余談ですが、この井上信濃守は幕府きっての外国通としても知られ、かの勝海舟を見いだしたのも、勝海舟を咸臨丸でアメリカへ送り込んだのも井上信濃守だと言われています。


(注)下田奉行とは、下田港において、"入り鉄砲・出女"を取り締まる役目の徳川幕府の役職である。下田港は、海上交通の要所ということで、須崎の越瀬に遠見番所が置かれ不審な廻船の検問を行った。江戸に出入りする船は、必ず、下田港にはいって、番所の調べを受けることになっており、番所の置かれた下田港は、「海の関所」の役目をした。

井上信濃守清直の略歴

井上清直(いのうえ きよなお)は、豊後(大分県)日田代官所の属吏(下級役人)だった内藤吉兵衛の次男として、文化6年(1809年)に生まれた。

父・内藤吉兵衛は甲州浪人で、流浪の末豊後日田に流れついて、代官所手代と養子縁組し三人の男子を産んだ。 内藤吉兵衛は、長男も次男もこのまま家にいたら出世もおぼつかないと、それぞれ幕臣の家に養子に出した。三男は父の後を継いだ。

兄(長男)の幼名は弥吉。小普請組の川路三佐衛門の養子となる。旗本(将軍家直属の家臣)であり、のちの勘定奉行(今でいう財務大臣)の川路聖謨(かわじ としあきら)である。川路聖謨は、嘉永6年(1853年)のペリー来航後、伊豆韮山代官の江川英龍(江川太郎左衛門)とともに、江戸湾を巡視し、品川沖に6基の台場(砲台)を設置した。いわゆる「お台場」の生みの親である。安政元年(1854年)には、下田でプチャーチンと日露和親条約を締結した。

井上清直の幼名は松吉。幕府持弓組与力の井上新右衛門の養子となって、井上信濃守清直と名乗る。将軍家を守る旗本として、寺社奉行吟味役、勘定組頭格を歴任。老中首座阿部正弘に抜擢され、安政2年(1855年)下田奉行に就任。翌年アメリカ総領事タウンゼントハリスが下田に来航すると、その応接を担当し、ハリスの将軍徳川家定謁見や日米修好通商条約討議に奔走した。安政5年(1858年)には大老井伊直弼の命により、目付(旗本の監察を担当)兼外国奉行(外国との交渉を担当、今でいう外務大臣)の岩瀬忠震(いわせ ただなり)とともに日米修好通商条約に日本側全権として調印した。間もなく外国奉行を兼任して、ロシア・フランス・イギリスとも通商条約を締結した。同年の将軍徳川家定の後継問題で一橋派に属していたため、井伊大老によって一時小普請奉行に左遷されたが、翌年軍艦奉行に任ぜられ、海軍整備に着手。その後、江戸町奉行(今でいう東京都知事)などを歴任し、慶応3年(1867年)の薩摩御用盗による激務のため、風邪を悪化させて同年12月28日に59歳で没した。井上邸は新宿四谷の上智大学の近辺(千代田区四番町)。墓は新宿区榎町の宗柏寺(そうはくじ)。



参考文献

(1)『幕末5人の外国奉行−日本を開国させた武士』 土居良三著 中央公論社
 幕府の外交官について書かれた本の中ではベストの本。
 これ1冊読んでおけば、 幕府の外務官僚達がどれほど優れた人材かがよくわかる。
 井上清直、堀利熙、岩瀬忠震、水野忠徳、永井尚志の5名の外国奉行を等分に描いているが、
 井上に関する本としては、今のところこれしかない。

(2)『下田物語(上)(中)(下)』 オリヴァー・スタットラー著 現代教養文庫
 ハリスの日本到着から、条約締結に至るまでの下田での生活を描いた作品。
 日々の細々とした描写の中に、井上の活躍と苦労を伺い知ることが出来る。

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